トミヤマユキコさんの新刊『夫婦ってなんだ?』を読んだ。
色んなカタチの夫婦が出てくる。実在の夫婦、映画や漫画や小説の中の夫婦、ご自分のパートナーとのお話。夫婦を「メッタ斬る!!」と帯にあったけれど、あくまでポップに色んな夫婦が語られている。
しかし、よその夫婦の話はなかなか参考になりそうで、ならない。人の数だけ宇宙があるというけれど、その宇宙×宇宙の組み合わせが当たり前だけれどその組み合わせの数だけあるわけで、自分たちの宇宙の面倒は自分たちでみなくてはならない。
私もこのところ自分たち「夫婦」について考えていた。面倒くさいけどやり甲斐あるプロジェクト「夫婦」についての私の話を書いておく。
(長くなった・・・)
* * * * *
今年に入って料理ノート(仮)つくり始めた。それは、料理を作るのがとても億劫で、家事に行き詰まっていたから。自分の料理や家事への気の持ちようだと思っていた。
でも、それは違った。
ノートの2冊目も終わりかけた頃、とどのつまり「夫婦」についても行き詰まっていたってことに気づいたのだった。
うちのottoは仕事が忙しい。現在、平たくいうとそこそこブラックな働き方をしている。私はアルバイト勤務のため、家事は結婚当初から私の担当だった。
夫は一人暮らし経験がほとんどなく、私は一人暮らしも長く、料理も家事も当たり前にする。そして、家に滞在する時間があまりにも違う為、気づけば家事の95%は私が担当していた。
今年に入って、私は「なんか、まずい」と思い始めた。何がまずいのかよく分からなかったけれど、何か新しい取っ掛かりを・・・と思って坂口恭平さんの「cook」の真似っこした料理ノートを作り始めた。
しかし3ヶ月くらいやってみて「これはこれで楽しい。良い。しかし、何かがますますヤバい。このままでは私がいつか、詰む。」と思った。
その頃の気分が、今読むとこの日記あたりににじみ出ている。
なんかずっと体調がいまいち優れない。気持ちが前向きにならない。
そうこうするうち、#KuTooという運動を知ったり、アトロクの「韓国文学特集」で取り上げられていた『 82年生まれ、キム・ジヨン 』を読む中、自分が何にモヤモヤしているのかがわかってきた。
そのモヤモヤの核にあるのは
「私が日々行なっている家事という仕事をottoが透明化していることが辛い」だった。
家事を私がやることが当たり前になり過ぎていて、家事は「私だけの仕事」なっている上にottoは家事を「仕事」だとは思っていない様子。感謝はしてくれるけど、なんか違う・・・。こんなはずじゃなかった、と。
それに気づいても、まずは怒りが先行してしまってottoの言動に苛立ちを覚え、感情的に怒りのみをぶつけてしまうことが多かった。イライラはより強くなった。
ottoは付き合い始めの頃、私が怒りを見せると反射的にだんまりになり貝のように閉じこもり、そこからはコミュニケーション不可能になっていた。でもこの数年間、お互い辛抱強くそこから踏み出して、冷静に気持ちを伝え合う訓練をしてきたという土台はあった。
どちらかだけが悪いということは、ない。これまでちゃんと話し合ってすらこなかった結果なんだ。このままではお互いがキツい。
私の最近の気持ちを伝え
「家事をふたりの仕事と捉えて、やれることはやってほしい」と言ったら
「気持ちはわかったよ」「何をやればいいのか言ってくれればやる」と返ってきた。
うーん、なんか違うんだよなぁと思いながら、伝わった部分と伝わってない部分があることを私はひとまず受け止めた。
そんな中、とある出来事があって「私のやっとる家事って仕事をナメとるんかコラ?!」と怒り心頭してしまった。翌日になっても気持ちが収まらなかったので、少し冷静になろうとひとりで街にレイトショーを観に行くことにした。
その際、やっておいて欲しいことを具体的に箇条書きにしてメモ紙を何枚も置いて出かけた。なるべく具体的に書くことを心がけた。
帰ったら、書いたことは全部やってあって、ottoは私のメモ書きの内容をまとめて一枚の紙に箇条書きにして壁に貼り
「これからは、なるべくこれをやるよ」と言った。
「続かないだろうな」と思ったけれど、几帳面に紙に書き写された文字を見て少し私の心もゆるんだ。
そんなことがあって数日後。
私はとうとう風邪を引いた。中途半端に辛い症状で高熱は出ないが地味に長引きそうな風邪。確実に原因のひとつはストレス。寝込んで動けない程ではないけれど、生理痛やら花粉症も重なりまぁまぁの辛さだった。
ottoは休日になると「おれに任せとけ」とか言って大抵の家事をやってくれた。といっても、私が横からやり方をレクチャーしながらだ。洗濯物ひとつでも「それじゃー乾かないでしょ」というトンチキな干し方をするので目が離せない。
夕飯も1日はお惣菜を買って済ませたが、翌日は私が教えつつ煮込み料理を完成させていた。ottoの性質からいって、料理がどうしても向いてない人だとは思えなかったので、やれば普通にできるのだ。
買い物行って料理して食卓を準備して片付けて・・・一通りやり終わると、ひと仕事やり終えた感満々である。というか、ぐったりしていた。大仕事であることを体で理解したらしい。
「大変だ・・・」としみじみ言っている。よい傾向だ。
翌日、仕事から帰ってきたottoは「今日は疲れたから先に寝させて。後片付けは、悪いけど任せていい?」とひとこと。
そう、
そのひとことが自然に出ることを私は求めていたんだよ。嬉しかった。
少し何かが変わった気がした。
これ以来、ottoは仕事のある日でも食事の準備、片付けも自分の仕事として認識している様子で、風呂を洗ったり入れたりもするようになった。無理な時は「よろしく」と言って先に寝る。
こうやって書いていると、あまりに当たり前のことすぎて今まで何だったのだと愕然としなくもない。
「どうしたいのか」を置いてきぼりにして、「やるのが当然」という思い込みで自分を追い詰めてしまっていた。そのことにすら気づかず、やり過ごしてしまった結果だ。
あきらめてしまっていたのだ。
これからは、あきらめない。
相手とたたかうんじゃなくて、自分の中の「あきらめ」の気持ちとちゃんと向き合う。あきらめていると、伝えることすらしないか、伝え方が攻撃的になって余計にこじれる。
私はふたりのオリジナルな生活(宇宙)をお互い協力して気持ちよく楽しく作っていきたい。そう思っていたはずだったし、今も思ってる。
「こんなはずじゃなかった」と思えたから軌道修正できた。
ottoがもとから家事をやろうとしてくれる人なら、そりゃ良かった。けど、そうじゃなくても、 縁があって一緒にいたくて結婚したひとだ。ちゃんとコミュニケーションを取れば、なんとかなる。
いわゆるフェミニズムという動きが世の中にあることはわかっていたけれど、今回まずは#KuTooに触れることで「そっか、これを“変えよう”って言っていいんだ」ということを知った。そして、これって女性差別なんだわってことも。あまりにも内面化しすぎていて、自分があきらめていることにすら気づかなかった。それぐらい、根深い。初めて自分の問題として捉えるようになった。
より良い世の中にしたいな、は常に思っていること。何がそれを妨げているのかを知ることは大切だ。
今の私にまずできるのは、この最小単位の社会である「夫婦」をあきらめないことだなって思ってる。